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紅ミュージアム<江戸女性の化粧風俗>

江戸女性の化粧観

江戸初期の仮名草子『竹斎』に、「女人の六欲」のひとつとして「面粧」、すなわち紅や白粉で化粧して美しくなろうとする欲を挙げている。また、近世の女訓物(女性のための戒めや教訓をまとめた修身テキストのこと)には欠かさず化粧の心得が説かれており、化粧の有り様そのものが、当時の女性にとって大切な身嗜みであり、教育されるべき習慣的な行いであったことがわかる。[註1]
たとえば、元禄5年(1692)に発行され、以後、江戸時代を通じて多くの女性に読まれた女訓物『女重宝記』には、「女と生まれては一日も白粉を塗らず顔に有るべからず」と諭され、家人が起きてくるまでに、髪を整え、お歯黒をし、身支度をきちんと終えておくことが大事とされている。厚化粧は卑しく下品であるとし、白粉は薄く、紅もほんのり色付くようにのせることが好ましいとされた。この他の女訓物を見ても、「口紅粉の色濃はいやしきものなり」(『絵本江戸紫』)、「いたく赤きは賤しし」(『女用訓蒙図彙』)と説かれ、もっぱら薄く淡い化粧が、品良く好ましい女性の彩りとして認識されていた。
唯一、濃いことが奨励された化粧は、お歯黒だけであった。江戸時代にあっては、「お歯黒をして半元服、眉を剃り落として本元服」といわれており、女性は結婚を前後して歯を染め、出産を機に眉を剃った。黒という色が他の何色にも染まらないことから、既婚女性の「貞節」を意味したとされるお歯黒は、薄かったり色むらがあったりでは、却って身嗜みとしてマイナスだったのだろう。黒々とした歯こそ口元美人の証であり、また一方で、お歯黒は歯槽膿漏や歯周病に効能があったことも指摘されており、まさに美と実を兼ね備えた化粧だったのである。

たった三色で美を極めた江戸女性

このように女訓物で諭された化粧観だが、では、江戸時代の女性が化粧を楽しまなかったかというと、一概にそうとは言い切れない。特に江戸後期、一般的に化粧文化が花開くとされるこの頃になると、TPOや季節・年齢を考慮した化粧のバリエーションは、現代に通じるほど多様性を見せる。
一例を挙げると、文政2年(1819)刊行の美容本『容顔美艶考』には、春夏秋冬ごとの化粧、物見遊山や観劇に行く際の化粧、娘や嫁御寮・世帯女房・子持ち女房・下女の化粧といった具合に、場面や身分・年齢ごとの化粧の違い・ポイントが記されている。また、前書に先立って刊行された総合美容読本『都風俗化粧伝』(文化10年刊)には、コンプレックスを隠す化粧法が図入りで詳解されており、鼻を高く見せる方法や、目尻が下がっている人・上がっている人それぞれに適したアイメイクをすすめたり、乾燥しすぎない洗顔の大切さを記したり、アンチエイジングのマッサージ法を載せたりと、まったくもって現代の女性誌で取り上げられているような内容に溢れており、江戸時代の女性の美意識の高さがうかがい知れるものだ。

『都風俗化粧伝』・文化10年(1813)刊行

当時は、現代のように化粧に用いられる色が豊富に用意されていたわけではない。ファンデーションに該当する白粉は「白」一色のみであり、その他の色といえば口紅や目弾き(アイメイクのこと)に使った紅の「赤」、お歯黒・眉墨の「黒」だけで、わずか三色で美を作り上げなければならなかった。
諺に、「色の白きは七難隠す」というものがあるが、これは古くから存在した美意識で、江戸時代の女性も美しく肌理細やかな肌作りには大変な関心を寄せていた。前掲『都風俗化粧伝』では、白粉化粧において最も肝要なのは「白粉を丁寧に溶くこと」だという。これは、白粉の溶き方が化粧の仕上がりと密接に関係していたからである。溶き方が粗ければ、化粧崩れしやすく、白粉の伸びも悪く、均一な白い肌は作れなかったのだ。現代の何種類もあるファンデーションとは違って、白一色だった白粉だからこそ、より一層美しい仕上がり感にこだわりがあったのだろう。
そして、美しく自然に仕上げた白粉の肌をほんのり色付けるための「紅」は、唇はもとより頬・目元などにのせたり、時にはコントロールカラーのように用いたりと、女性の顔に欠かせない大切な色だった。戯作者・式亭三馬は、自著『浮世風呂』の中で、町方の女性たちが歌舞伎役者の舞台化粧を真似て、目元を紅で彩っている様子を描いている。また、川柳には、「口紅粉ハ大和屋流デ娘付ケ」と詠んだものがある。江戸時代、服装や化粧などの流行発信者は、役者や遊女といった花柳界に属する人々で、ここで詠まれている大和屋も当時の名女形であった「岩井半四郎」の屋号である。大和屋が舞台上で見せた口紅化粧がよほど魅力的だったのだろうか、「大和屋流」を真似て化粧をする娘の心模様は、今も昔も変わらないことがよくわかる。[紅化粧の詳細はこちら]
ところで、お歯黒に関しては冒頭で少し触れたが、「お歯黒をして半元服、眉を剃り落として本元服」といいつつも、実際はある一定の年齢になると、既婚・未婚を問わず、お歯黒をし、眉を剃っていたようだ。お歯黒も眉化粧も、ともに女性の身分や職業・年齢を示すメッセージ性の強い化粧であったが、江戸後期の風俗に詳しい『守貞漫稿』によれば、未婚女性であっても、京坂では21〜22歳になれば歯を染め、江戸では20歳未満で染めている者がいたという。この背景には諸事情あろうが、妙齢の女性の嗜みとしてお歯黒化粧をしないほうが何かと不都合だったのだろう。

「名筆浮世絵鑑」・五渡亭国貞 画
鏡台に肘を付き、真剣な面持ちで眉を整える遊女。

さらに眉化粧に関しては、眉を剃り落とすまで、各自の顔形にあった眉作りを意識的に楽しんでいたようだ。『都風俗化粧伝』を見ると、「各々の顔かたちにあった眉作り」がすすめられており、眉の長短・細太・濃淡によって顔の印象が変わることを、当時も熟知していたことが容易に知れる。一説によれば、浮世絵絵師が、眉がないと表情が陰気に見えてしまうため、あえて眉を添えた既婚女性の顔を描いた、というエピソードが残っているという。眉化粧の重要性を、女性だけでなく、それを見る側・描く側も理解し、実感していたことがわかるというものだ。[註2]
余談ではあるが、幕末・明治維新の激動期日本を、イギリス外交官の視点から客観的に記した『一外交官の見た明治維新』の中に、お歯黒と白粉について言及した箇所がある。それによれば、女性の美しい容貌も、「お歯黒と白粉化粧によって台無し」になっているという。外交官が抱いたこの率直な感想こそ、今となっては共感できる感覚であろうが、当時にあってはその「台無し」が、日本女性の嗜みと美意識を表現していたのである。

 
[註1] 一口に女訓物といっても、上流階級を対象とするもの・一般庶民を対象とするものとでは内容に多少の差異があり、
身嗜みの程度も同様である。当時のすべての女性を、事例の女訓物にならって一概視できるわけではない。
[註2] 上流階級の女性の眉化粧は、身分・職業ごとに厳密に定められており、市井の女性の眉化粧とはまた様相が異なった。
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